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(5)絹の波

 主婦がパートで働けるようになったのは大分後のことだが、母は頼まれれば家で着物の仕立てをしていた。世の中は戦後の混乱期を過ぎ、生活が安定して、文化的なものに目がいくようになっていた。お茶やお花の稽古に通う人が増え、それらの先生や生徒からの注文が次第に多くなり、母の仕事は繁盛していた。
 反物を縫い上げる作業は、母の手にかかると簡単な仕事に見えた。それでも縫いはじめる前、反物に鋏を入れるときは、母が最も緊張するときだった。
 部屋に反物を広げ、待針を打つ。鋏を手にする母の顔はきりりと締まり、わたしは思わず部屋に入るのをためらう。
 部屋を占領した反物は波のように大きくうねり、母の鋏がたうたう海を割る。反物は胴体と袖の部分に分かれると畳の目が現れ、針に糸を通す段階になって、やっとわたしは部屋に入る。
 ある晩のことだった。父は相変わらず帰っていない。ゼンさんも旅に出ているときで、母は裁ち終わった布に針を通していた。部屋の隅で、火鉢の上のやかんが静かに湯気を立てている。もう冬がはじまっていた。
「なんだか、静かねぇ」
 降り出した雨が規則的な音を立てて、庭にある物置のブリキ屋根をたたいている。母のいった「静かね」は「さみしいわね」という意味だ。父とゼンさんの両方ともいないときは、わたしがなんとかしなくてはいけない。
「こんなときは仕事はおやすみ、ね」
 わたしは棚にあるラジオのスイッチを回した。「お祭りマンボ」が流れてきた。「りんご追分」に続く美空ひばりのヒット曲である。わっしょい、わっしょい、という掛け声がにぎやかだ。
「なんだか騒がしいけど、いい歌ねぇ」
 母の顔がゆるんだので、わたしは「さあ、踊ろう」と手をとった。ふたりでわっしょい、わっしょい、と声をそろえて部屋の中を飛び跳ねた。
 突然、庭に面したガラス戸がガタガタという音をさせた。
「!」「?」
 母と顔を見合わせた。互いの顔に恐怖の色がにじんだ。母の顔が青くなった。
「どなたですか」と母が庭に向かって震える声を掛け、わたしは父が素振りに使う木刀を手にした。そして次に大声をあげる、とゼンさんから留守番の心得を教わったのを思い出した。だが声は出ない。出そうとするのに、声はぐーと喉の奥のほうでつまっている。
 障子を開けて廊下に出ると、人影がガラス戸に映っていた。泥棒だ。わたしは思わず叫んだ。
「ゼンさーん、早くきてー」
 わたしの声に刺激された母が、息を吹き返したようにいっしょに叫んだ。
「ゼンさーん、ゼンさーん」
 ふたりの声がより高くなったとき、人影から声が聞こえた。
「おい、わたしだ。わからないのか」
 父だった。
 玄関の呼び鈴を鳴らしたのに、ラジオの歌に合わせて歌っていたわたしたちの耳には聞こえなかったのだ。父は玄関から入るのをあきらめて庭に回ったら、泥棒にされたのだった。
 はっとして母と互いを見ると、木刀を持ったはずのわたしの手には帚があり、母の手には鋏があった。
 父は深く傷ついたようだった。なぜなら母とわたしが助けを求めて叫んだのは父ではなく、ゼンさんだったから。(つづく)

<沙木実里(さきみのり)プロフィール>
東京生まれ。東レ、カナダ大使館などに勤務の後、フリーライターに転向。朝日新聞社主催のエッセイコンクール入選を機に、企業PR誌やラジオ原稿を執筆。また夫の歌うシャンソンの日本語詞を手掛け、「今日でお別れ」の作曲家、宇井あきら氏のオリジナル作品に作詞をする。作品は、有楽町マリオンで開催されたコンサートにて、石井好子、菅原洋一などによって歌唱、披露された。
現在は「調布FMラジオ」で、1時間番組「気分はいつもブルースカイ」のパーソナリティを務め、企業の経営者や芸術家など、多彩なゲストを迎えている。同番組は開局以来20年を経て、現在も継続中。
【受賞歴】
岡山県井原鉄道特別列車「夢やすらぎ号」命名
第40回 北日本文学賞「軒の雫」にて選奨受賞
第10回 長塚節文学賞「風の櫛」にて小説部門大賞受賞 ほか
ソングコンテストグランプリ2019(日本作詩家協会、日本作曲家協会の共同企画)で「FLY〜旅立ち」にて最優秀作詩賞を受賞。11月より歌手のクミコにより歌唱、CD発売される。
<お断り>
この作品は、詩人の清水哲男氏主宰の会員制WEB週刊誌「ZouX」(ゾーテン)に掲載したものに加筆、修正したものです。作品はフィクションです。作中の登場人物は実在の人物とは一切関係ありません。

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