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(29)羊羹の切れ端

 家にもやっと電話がきた。黒いどっしりとした形は、だれかがアグラをかいているようだ。真ん中にあるダイヤルも、近所のだれかの顔に似ているような気がする。電話がきたばかりの頃は、玄関脇に置いた黒い塊が気になって仕方がなかった。
 電話はベルの音がする前に、ちっ、と小さい音をだす。ふっと笑うような、ひっと息をのむような、これから鳴りますよ、という合図のようで、わたしはその音を聞き逃すまいと耳をたてる。
 子供が電話を使うのは許されていなかったが、掛かってきた電話には出てもよいことになっていた。電話が小さなため息を吐くと、わたしは飛んでいった。当然わたし宛てのはなく、父や母に手渡すだけなのだが、それだけで満足だった。電話のそばでベルが鳴るのを気にしながら本を読んでいると、母は「そんなに待ってもいても、鳴らないわよ」と笑った。
「ごめんくださいませ」と玄関口で声がした。隣のみっちゃんのお母さんだ。家に電話がなかった頃は、よく取り次ぎをお願いしていたが、電話がきたこの頃では、顔を合わせる機会が減った。健康状態は、みっちゃんとやり合う元気な声で測る。
 母は買い物に出かけています、と答えると、みっちゃんのお母さんの視線が家の奥に注がれた。ゼンさんを気にしているのだ。わたしは用心しながらも、みっちゃんのお母さんの全身に目を走らせる。一体、なにをしようというのか。相変わらず口紅が赤い。それに刺激されたわけでもないが、口調がきびしくなった。
「あ、ゼンさんもるすです」
「あらぁ、そうなの」
 残念だ、という字を顔じゅうに書き放したような表情で、みっちゃんのお母さんは、その後の行動を決めかねているようだった。ゼンさんがいたらどうするつもりだったのか。母がいたらどうなのか。正体不明の不快感がわたしを襲う。みっちゃんのお母さんは、まだゼンさんを狙っているのだ、きっと。
「じゃ、またにしようかしら」
 いったん背中を向けたみっちゃんのお母さんが、くるりとこちらを向いた。一気に緊張感がよみがえって、刀に手をかけた侍のように身構える。
「あのね、じゃあ、これね」
 持っていた包みをわたしに寄越した。
「いただき物だけど、えっと、ゼンさんのすきなもの。帰ったら召し上がってね、いっしょに」
 ありがとうございます、と頭を下げて、包みを受け取った。どっしりと持ち重りのする小箱には、羊羹の老舗の名前がある。ゼンさんも、わたしも大好きな羊羹だ。ぐびり、と喉の奥が鳴って、急にみっちゃんのお母さんが好きになる。感情というのは物で左右される。それが面白くもあり、哀しくもある。
 母が帰ると、わたしは報告に苦心した。「みっちゃんのお母さんが来て、ゼンさんのすきなもの、帰ったら召し上がってね、いっしょに」と原文のまま状態で告げようとしたが、そうすると羊羹はゼンさんが帰るまで開けられない。みっちゃんのお母さんは、この羊羹をゼンさんに持ってきたのか。わたしたちはお預けになるのか。
「まぁ、悪くならないもんだし、いいじゃないの」と母はのんきに羊羹の箱を仕舞った。わたしが気になるのは羊羹を食べる時期ではなく、みっちゃんのお母さんがゼンさんを目指して羊羹を持ってきたという事象についてだ。それにゼンさんもわたしも羊羹の端がすきで、いつも取り合いになる。なるべくならゼンさんより先にあのお砂糖がたっぷりまぶされた羊羹の端を取りたいものだ。わたしはまた新しい悩みに取り組んだ。(つづく)

<沙木実里(さきみのり)プロフィール>
東京生まれ。東レ、カナダ大使館などに勤務の後、フリーライターに転向。朝日新聞社主催のエッセイコンクール入選を機に、企業PR誌やラジオ原稿を執筆。また夫の歌うシャンソンの日本語詞を手掛け、「今日でお別れ」の作曲家、宇井あきら氏のオリジナル作品に作詞をする。作品は、有楽町マリオンで開催されたコンサートにて、石井好子、菅原洋一などによって歌唱、披露された。
現在は「調布FMラジオ」で、1時間番組「気分はいつもブルースカイ」のパーソナリティを務め、企業の経営者や芸術家など、多彩なゲストを迎えている。同番組は開局以来20年を経て、現在も継続中。
【受賞歴】
岡山県井原鉄道特別列車「夢やすらぎ号」命名
第40回 北日本文学賞「軒の雫」にて選奨受賞
第10回 長塚節文学賞「風の櫛」にて小説部門大賞受賞 ほか
ソングコンテストグランプリ2019(日本作詩家協会、日本作曲家協会の共同企画)で「FLY〜旅立ち」にて最優秀作詩賞を受賞。11月より歌手のクミコにより歌唱、CDが発売されている。
<お断り>
この作品は、詩人の清水哲男氏主宰の会員制WEB週刊誌「ZouX」(ゾーテン)に掲載したものに加筆、修正したものです。作品はフィクションです。作中の登場人物は実在の人物とは一切関係ありません。

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