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(33)苦悩する答案

 子供は元気が一番と主張する母が、返ってきた答案用紙を広げ、いつになく顔を引きつらせた。声もなく悲しみと苦痛に耐える母に、さすがのわたしも罪の意識が芽生えた。
 点数が悪いのはそれなりの事情があり、また点数が悪いからといって、母に答案用紙を見せない卑怯な手段は取りたくなかったのだ。わたしとしては、責めを受けるのを覚悟で潔く差し出した返却答案だ。その武士のような勇気を褒めてほしいという気持ちもあった。
 母が深いため息をつく。わたしはわたしなりの理由を話すべきかどうか迷い、視線を部屋の壁に這わせる。どの教科にしても、内容がわからないということはない。算数にしても、普段は計算に苦労はしなかったし、国語の文章問題を論理的に考えるのもつらくなかった。だがときどき別のことに気持ちが引きずられてしまうことがある。魔がさすとはこのことだろうと思う。
 たとえば、足し算、引き算のプラスとマイナスはわかる。マイナスの横棒、−に縦棒を足すからプラスの+になる。だから足し算という。だが、かけ算が×で、割り算が÷になるのはどうしてだろう。掛けるってバッテンなのか?割るって、ふたつが等分になると決まっているのか?そういうふうに決まっているのだ、そう思うのだ、と自分の脳を説得しようとして、×と÷の記号を見つめているだけで時間が経ってしまう。決して内容がわからないというのではないのだが、答案用紙には空欄が目立つ結果になる。その思考経路が表面に出ないのが残念というしかない。
 今回は担任の教師からすでに事情聴取を受けていた。
「どうして、こんなことを書くの?」
 教師は、他の惑星からきた生物を見るような視線を、おずおずとわたしに落とした。
「だれに教わったの?こんなこと教えなかったわよね、ユーちゃん」
 今や学校でもわたしの名前はユーちゃんになっている。有名になったものだ、と別の感慨に浸っていると、教師は次第に苛立ちが抑えられなくなってきた。呼吸が荒い。
 あのー、とわたしは重い口を開ける。
「ちがっていますか?」
 おかしいなぁ、そう教わったのに、とわたしは無垢な表情で教師を見つめる。
「ち、ちがっていますかって、あなた、これは、ちがうでしょう」
 教師は理由を知りたがっている。それはわかっているのだが、わたしには何が悪いのか、まったく不思議だ。別の惑星からやって来たのは先生のほうじゃないか、と思える。教師にはわたしの悪びれない態度が気になるようだ。
「だから、ちがう、でしょう」
 教師は、いいようがない、という表情でわたしに顔を近づけた。
 定年まであと一年、という教師は、困惑の表情を皺の中に埋めている。真面目な教師にしてみれば、最後の一年を悔いのない年にしたいという必死の意欲もある。
「だからぁ、だ、れ、か、ら、おそわった、の?」
 言葉を覚えはじめた子供に言うように、ゆっくりと教師の口が動く。ここでゼンさんの名前を出すのは裏切りになるだろうか。でも、いわなければ教師は定年を迎えるまでずっと悩みを引きずりそうで、それも気の毒だ。はぁ、と教師が大きく息を吐いた。
 教師は母に電話をしたのだろうか。母は教師と双子ではないかと思えるほど似たため息をつく。国語のテストには、漢字にふりがなをつける問題があった。「人生、男、恋愛、友達」などが出題され、わたしはそれぞれに、「なぞ、うわきもの、ままにならない、たすけあい」と書いた。どれもゼンさんに教わったものだった。(つづく)

<沙木実里(さきみのり)プロフィール>
東京生まれ。東レ、カナダ大使館などに勤務の後、フリーライターに転向。朝日新聞社主催のエッセイコンクール入選を機に、企業PR誌やラジオ原稿を執筆。また夫の歌うシャンソンの日本語詞を手掛け、「今日でお別れ」の作曲家、宇井あきら氏のオリジナル作品に作詞をする。作品は、有楽町マリオンで開催されたコンサートにて、石井好子、菅原洋一などによって歌唱、披露された。
現在は「調布FMラジオ」で、1時間番組「気分はいつもブルースカイ」のパーソナリティを務め、企業の経営者や芸術家など、多彩なゲストを迎えている。同番組は開局以来20年を経て、現在も継続中。
【受賞歴】
岡山県井原鉄道特別列車「夢やすらぎ号」命名
第40回 北日本文学賞「軒の雫」にて選奨受賞
第10回 長塚節文学賞「風の櫛」にて小説部門大賞受賞 ほか
ソングコンテストグランプリ2019(日本作詩家協会、日本作曲家協会の共同企画)で「FLY〜旅立ち」にて最優秀作詩賞を受賞。11月より歌手のクミコにより歌唱、CD発売された。
<お断り>
この作品は、詩人の清水哲男氏主宰の会員制WEB週刊誌「ZouX」(ゾーテン)に掲載したものに加筆、修正したものです。作品はフィクションです。作中の登場人物は実在の人物とは一切関係ありません。

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