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(12)板一枚の地獄

 どういういきさつだったか、なかなか休みの取れない父が、釣りに出掛ける計画をした。釣りといっても釣り船をチャーターした本格的な海釣りだ。みっちゃんの家族も一緒で、みっちゃんは運動会のときの体操着を着てきた。
「お魚、いっぱい釣るんだもん」
 みっちゃんは頭に巻いたハチマキを、きりりと締めた。
「あんまり騒ぐと、魚が逃げるぞ」
 みっちゃんのお兄ちゃんが冷静に魚図鑑をめくる。
 みんなはじめての釣り船体験で、期待に胸をふくらませて船着場に行った。
 大きな川の支流の橋の近くに、釣り船が停まっていた。ほかの乗客はすでに乗っていて、わたしたちが乗り込むのを待っていた。
「さ、子供たちから乗りなさい」と父が言い、みっちゃんが前に出た。船と岸を結ぶように40センチほどの幅の板が渡してある。一瞬、いやな予感がした。40センチしかない板の上を、ひとりで歩いて渡るのか?そんなこと、したことないけど。
「じゃ、おさきに」とみっちゃんは気楽に板に足を乗せたと思ったら、スタスタとなんの躊躇もなく、スキップをするような速さで歩いた。
 わたしの番になった。立っている岸から船までは三メートルくらいだろうか。足先を板にのせた。板の下には川の水面がみえる。落ちたらどうしよう。わたし、泳げない。そう思ったら、足が動かなくなった。
「ユーちゃん、はやくーぅ」
 みっちゃんが叫んでいる。さぁ、がんばろう。そう自分を励まして、もう片方の足を板にのせた。だめだわ、わたし、泳げないもの。
そう思ったら、涙がにじんだ。
「ほら、ユーちゃん、こうするんだよ。下を見ちゃいけないよ」
 みっちゃんのお兄ちゃんも、スタスタと板の上を歩いた。さすが兄妹だけある。ふたりの足取りはおなじで、勇気が板をすべっているようだ。
「無理しないでいいのよ、ユーちゃん」と天使のような母の声がした。でも、ここですぐに白旗を上げていいものだろうか。
 みっちゃんや、みっちゃんのお兄ちゃんにとっては、板の上を歩く行為は難易度1か、あるいは0かもしれない。わたしにとっては難易度10くらいだというのに。
 わたしには勇気という名の友はいないのだ。そして度胸という相棒も。ただ足がすくみ、震えている。涙でゆがんだ顔は、いつかテツカカズオさんが描いてくれた、笑った馬の顔よりひどいにちがいない。
「わたし、だめだわ」
 涙で川の水が揺らめいた。
「じゃ、おんぶしようね」と父がわたしを背負い、無事に乗船した。
 父の背中から下りて船の板に足がついても、ずっと岸と船を結ぶ板の上にいるような感覚が消えなかった。
 わたしとしては、父がもっとはやくおんぶしてくれなかったのが納得いかない。父親は娘の意気地なさも運動神経のなさも知っているはずなのに。親がときとして子供の能力を伸ばそうと、片目をつぶって子供を見守ることがあるのも知らず、わたしは父を上目で睨んだ。
「ま、回転木馬で泣くくらいだから、しょうがないわよね。でも、きっとユーちゃんにも得意なものがあるはずよ」とみっちゃんは妙ななぐさめ方をした。
 人によって得手、不得手というのは理屈ではないのだ、とわたしは主張したいのだが、みっちゃんの辞書に不得手という文字は見当たらない。不得手がどういうものか説明してもわからないだろうと気づき、うなだれるしかなかった。(つづく)

<沙木実里(さきみのり)プロフィール>
東京生まれ。東レ、カナダ大使館などに勤務の後、フリーライターに転向。朝日新聞社主催のエッセイコンクール入選を機に、企業PR誌やラジオ原稿を執筆。また夫の歌うシャンソンの日本語詞を手掛け、「今日でお別れ」の作曲家、宇井あきら氏のオリジナル作品に作詞をする。作品は、有楽町マリオンで開催されたコンサートにて、石井好子、菅原洋一などによって歌唱、披露された。
現在は「調布FMラジオ」で、1時間番組「気分はいつもブルースカイ」のパーソナリティを務め、企業の経営者や芸術家など、多彩なゲストを迎えている。同番組は開局以来20年を経て、現在も継続中。
【受賞歴】
岡山県井原鉄道特別列車「夢やすらぎ号」命名
第40回 北日本文学賞「軒の雫」にて選奨受賞
第10回 長塚節文学賞「風の櫛」にて小説部門大賞受賞 ほか
ソングコンテストグランプリ2019(日本作詩家協会、日本作曲家協会の共同企画)で「FLY〜旅立ち」にて最優秀作詩賞を受賞。11月より歌手のクミコにより歌唱、CD発売される。
<お断り>
この作品は、詩人の清水哲男氏主宰の会員制WEB週刊誌「ZouX」(ゾーテン)に掲載したものに加筆、修正したものです。作品はフィクションです。作中の登場人物は実在の人物とは一切関係ありません。

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